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カクテル・ヒストリア第26回『今さらながら、サイドカーは誰が考案したのか……』

「マッケルホーン=考案者」にこだわる人々

現代のバーで最もよく飲まれる人気カクテルの一つに「サイドカー(Sidecar)」がある。20世紀初めに誕生し、カクテル名は第一次世界大戦で開発された、「オートバイの横に取り付けて走る乗り物」に由来する。

誕生して100年余り。今も世界中で愛されるカクテルSidecar

これほど有名なカクテルなのに、誕生の時期や考案者については定説がない。一番有名なのは、パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」(1923年創業)のオーナーだったハリー・マッケルホーン(Harry McElhone)が、1920年代前半に考案した」という根拠不確かな説。しかし、日本国内では、この説をさも本当であるかのように紹介するカクテルブックが今なお多いという現状は、カクテル史を研究している私としては、非常に不可解で、残念でならない。

サイドカー誕生を巡っては、他にも以下のような様々な説が伝わっている。

(1)第一次世界大戦(1914~18)中、パリのとあるレストラン・バー。コニャックを飲んでいた米軍人の元に、「急いで軍の本部へ戻れ」という指令が来た。度数の強いコニャックを短時間で飲み干さなければならないその軍人が、バーテンダーに「ホワイト・キュラソーとレモン・ジュースで割ってくれ」と頼んだのが始まり。

(2)パリのリッツ・ホテル(Ritz Hotel)内のバーで誕生した。
※リッツ・ホテルのチーフ・バーテンダー、コリン・ピーター・フィールドはその著書「The Cocktails of The Ritz Paris」(2003年刊)の中で、「1923年頃、リッツのバーの責任者だったフランク・メイエ(Frank Meier)が考案したと信じている」と書く(ただし、メイエ自身は、1934年に出版した自著『The Artistry of Mixing Drinks』の「Sidecar」の項では、自分のオリジナルかどうか一切言及していない)。

(3)19世紀半ばにニュー・オーリンズで生まれた「ブランデー・クラスタ」(末尾【注1】ご参照)という古典的カクテルが、20世紀初めにシンプルなものに改良され、それがサイドカーの原型となり、その後欧州に伝わった。

信頼できる一次資料こそ最良の「拠り所」

諸説が入り乱れている場合、私は、信頼できる一次資料(カクテルブックなどの文献)の記述を「拠り所」にするしかないと信じている。私が現時点で一番信頼するに足ると考えているのは、「ロンドンの社交クラブ<バックス・クラブ(The Buck’s Club)=1919年創業>の初代バーテンダー、パット・マクギャリー(Malachy “Pat” McGarry)が、それ以前にフランス国内で人気カクテルだったものにアレンジを加え、現代伝わっている標準的なレシピを確立して、英国内で広め、それがさらに米国など国外へも伝わった」という説である。

Sidecarが誕生したと伝わるロンドンのBuck’s Club(1919年創業)

「サイドカー」のレシピが最初に活字になったのは、1919年に英国で出版されたハリー・マッケルホーンのカクテルブック『Harry’s ABC of Mixing Cocktails』の1922年改訂版である(レシピは「Brandy 3分の1、Cointreau 3分の1、Lemon Juice 3分の1」)。マッケルホーンは、1918年~22年末までの約4年間、ロンドンの「シロ―ズ・クラブ(The Ciro’s Club)」という社交クラブでバーテンダーとして働いていた。

Sidecarが初めて活字になったカクテルブック「ABC of Mixing Cocktails」(1919年刊)

同著改訂版のサイドカーの項には、「このレシピは、ロンドンのバックス・クラブのバーテンダー、パット・マクギャリーによるもの(Recipe by Pat McGarry)」という添え書きがある。「マクギャリーのオリジナル」とは断定していないが、少なくともマッケルホーン自身は「自分のオリジナルではない」ことを示唆している(末尾【注2】ご参照)。

また、同じ1922年、英国でロバート・ヴァーマイヤー(Robert Vermeire)というバーテンダーが出版したカクテルブック『Cocktails:How To Mix Them』にも、サイドカーの項には次のような添え書きがある。「(1922年時点で)サイドカーはフランス国内で非常に人気のカクテルである。バックス・クラブの著名なバーテンダー、パット・マクギャリーによって初めてロンドンに紹介(introduce)された」。ヴァーマイヤーも、「マグギャリーのオリジナル」とは断定せず、フランス国内発祥説をにおわせている。

1920年代のフランスでSidecarはすでに人気カクテルだったと伝える「Cocktails:How To Mix Them」(1922年刊)

レシピ情報共有も当然できた3人のバーテンダー

著者ヴァーマイヤーは、当時フランス・ニースのカジノのバーで働いていたが、その前にはロンドンの「エンバシー・クラブ(The Embassy Club)」という社交クラブにも勤めていた経験がある。

ほぼ同じ時期に、ロンドンの社交クラブで働いていた経験を持つマッケルホーンとヴァーマイヤー、そしてマクギャリー。3人には当然面識があり、マクギャリーがいた「バックス・クラブ」で人気を集めていたサイドカーのレシピも、他の2人にはすぐに伝わったことだろう。

結論として、同時代の2人の重要な文献で同様な証言がある以上、現在伝わっている「標準的なレシピのサイドカー」の誕生に最も貢献した人物(=考案者?)は、マッケルホーンではなく、パット・マクギャリーであると考えるのが一番自然であろうと私は思う。そして、もしマグギャリーが考案者ではなかったとしたら、それはパリのバーで働く誰かであったのであろうが、その名前は今となっては探し出すことは難しい。

「マッケルホーン=考案者」説は、(同じく有名なカクテル「マルガリータ」の「流れ弾に当たった恋人の名前起源」説のように)もはや、根拠のない「後世の作り話」でしかない。日本の出版社やバー業界も、根拠のない説を信じ込み、一般に広めるのはそろそろやめた方がいいと思う。

マッケルホーンは1922年、かつて働いたこともあるパリの「ニューヨーク・バー」が売りに出されたことを知って買収し、翌1923年2月、店の名前を「ハリーズ・ニューヨーク・バー」に変えてリニューアル・オープンした。そして自らのバーを通じて、サイドカーを世界的に広めた。「サイドカー普及の最大の貢献者」がマッケルホーンであることに、異論を挟む人はいないだろう。

「サイドカー」は、日本にも1920年代前半に伝わり、日本初の実用的カクテルブックの一つと言われる「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)で初めて紹介された。シンプルな材料のコンビネーションが生み出す奥行きのある味わい、アルコールと酸味と甘味の絶妙のバランス。100年後でも、多くの人々に愛されている理由が分かるような気がする。

【注1】
ブランデー・クラスタは、コニャックとキュラソーを混ぜたあとレモンやビターズを加え、砂糖で縁取りしたグラスで飲むのが本来のスタイル。近年は、「ブランデー・クラスタ」のレシピがよりシンプルに改良されサイドカーに発展したという説も、専門家の間でかなり支持を集めている。

【注2】
ハリー・マッケルホーンはその著書の改訂版(1922年刊)で「(サイドカーは)パット・マクギャリーによるレシピ」と記したが、その説明文は28年版を最後に消えて、1932年以降に出版された版では「自らが考案した」と説明を変更している。レシピ自体はまったく同じなのになぜ変えたのか、その理由は不明。「サイドカーを有名にしたのは自分であり、ハリーズ・ニューヨーク・バーである」という自負があったのかもしれないが、少々不可解と言うしかない

この記事を書いた人

荒川 英二
荒川 英二https://plaza.rakuten.co.jp/pianobarez/
1954年生まれ。大阪・北新地のバーUK・オーナーバーテンダー、バー・エッセイスト。新聞社在職中から全国のバーを巡りながら、2004年以来、バー文化について自身のブログで発信。クラシック・カクテルの研究もライフワークとしてきた。2014年 の定年退職と同時に、長年の夢であった自らのバーをオープン。切り絵作家の故・成田一徹氏没後に出版されたバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』では編者をつとめた。
荒川 英二
荒川 英二https://plaza.rakuten.co.jp/pianobarez/
1954年生まれ。大阪・北新地のバーUK・オーナーバーテンダー、バー・エッセイスト。新聞社在職中から全国のバーを巡りながら、2004年以来、バー文化について自身のブログで発信。クラシック・カクテルの研究もライフワークとしてきた。2014年 の定年退職と同時に、長年の夢であった自らのバーをオープン。切り絵作家の故・成田一徹氏没後に出版されたバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』では編者をつとめた。