運営:酒育の会

LIQULはより良いお酒ライフをサポートする団体「酒育の会」のWEBメディアです

コラムカクテルコラムカクテル・ヒストリア第32...

カクテル・ヒストリア第32回『「聖地」ハリーズ・ニューヨークバーは今』

パリの「ハリーズ・ニューヨークバー」は、カクテルの歴史を体現した「聖地」のような酒場である。1911年の創業。当初の店名は「ニューヨーク・バー」で、オーナーは元騎手の米国人だった。しかし1923年、ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone、1890~1958)という英国人がこの店を買い取り、店名を現在のものに変えたことから、その素晴らしい歴史が始まった。

ハリーズ・ニューヨークバーの店内風景。様々な国の人が訪れる。

数多くの「スタンダード」誕生・発展に関わる

マッケルホーンは、カクテルの歴史を語るうえで欠かせない人物である。バーテンダーの先駆者であり、サイドカーやホワイトレディ(【注】ご参照)」、ブラッディ・メアリー、フレンチ75など、今日でも不動の人気を誇るスタンダード・カクテルの誕生・発展に関わったほか、1919年には、世界で初めての実用的カクテルブックとして歴史に残る「ABC of Mixing Cocktails」も著した。

ハリーズ・ニューヨークバーを代表するカクテルたち。100年後の今も多くの人に愛される(左から)フレンチ75、ブラッディ・メアリー、サイドカー。

店は第二次世界大戦中、閉店を余儀なくされ一家はロンドンへ避難。大戦終結2年後の1947年、ハリーは次男アンドリューとともにパリに戻り、営業を再開した。そして、1950年代半ばには、店の経営を徐々にアンドリューに任せるようになった。

創業者のハリーは1958年、68歳で激動の生涯を終えたが、店の歴史と経営は、アンドリューから長男ダンカンへ、そしてダンカンの妻イザベルに継承され、さらに2020年代以降は、ダンカンの長男フランツ・アーサー(2025年現在37歳)へと、「マッケルホーン・ファミリー」4世代でバトンが受け継がれている。

何が変わって、何が変わっていないのか

一つのバーが100年続くというのは、稀有なこと。それがカクテル史に名を残すバーであればなおさらだ。カクテル史を追究してきた筆者が一番興味を抱くのは、この100年間で「ハリーズ・ニューヨークバー」はどう変わったのか、何が変わって、何が変わっていないのか、である。現在のドリンク・メニューはどうなっているのかも、とても気になっていた。

そこで、筆者の親しい友人で、ここ数年、パリで年間3~4カ月は暮らしているという方に先般、滞在中この酒場へ何度も足を運んでもらい、写真も含めた定期的なレポートをお願いした。具体的には、有名なカクテルを実際に味わい、写真を撮ってもらうこと、そして可能であれば、店のドリンク・メニューを一部もらってきてほしいと頼んだ。

友人は、そんな私のややこしい依頼を快く引き受けてくれた。店に通い詰めて、Dさんというバーテンダーとも親しくなってくれた(笑)。私のバーや私の顔写真を友人から見せられたDさんは、「そんなに興味をもってくれる人なら、ぜひ差し上げて」と快く、店のメニューの実物をくれた。

カクテル・メニューの「表紙」には初代マッケルホーンの写真が。
カクテル・メニューの中頁には、バーの歴史を紡いできたカクテルの数々が紹介されている。

メニューはA4横長サイズで4頁。1頁目は店の歴史を、創業者ハリーの写真とともに簡単に紹介。2~3頁目で、店の「レジェンド・カクテル」やウオッカベース、シャンパンベースのカクテルなどを紹介。4頁目では、ジンやラム、テキーラ、ウイスキーをベースにした店の最近のオリジナルらしきカクテルを載せている。

現在のメニューにみる「レジェンド・カクテル」は?

ちなみに店が「レジェンド・カクテル」としているのは、ブラッディ・メアリー、フレンチ75、ブールヴァルディエ、サイドカー、コロネーション、ジェームズ・ボンド、アポテーケ・カクテルの7つ。なぜかホワイトレディは入っていない(ちなみに、お値段は1杯15~16.5ユーロ)。

このうち、「ジェームズ・ボンド」というカクテルのレシピは、007映画で有名な「ヴェスパー(ボンド・マティーニ)」とはまったく違い、「ビターズを振りかけた角砂糖をシャンパン・グラスの底に置き、ウオッカを注ぎ、シャンパンで満たす。最後にレモンピールを」というもの。「フレンチ75のウオッカ版」という感じだろうか。

また、ドイツ語で「薬局」という意味を持つ「アポテーケ・カクテル」は、「フェルネット・ブランカ、スイート・ベルモット、ホワイトミント・リキュール」というレシピで、かなりハーブ系の薬っぽい味わいのカクテルなのだろうが、私は正直、初めて聞く名前だった。

友人には、「とりあえず、最低限、サイドカー、ホワイトレディ、ブラッディ・メアリーは飲んできてくれ」と頼んだ。友人の感想は、「味は普通に美味しかったが、グラスが大き過ぎて(分量が約200ccも!)、1杯だけで酔ってしまいそうだった」というものだった。

100周年を記念して豪華な写真集

創業100年を祝って2011年に刊行された豪華な写真集。

店は、2011年に創業100年を迎えた。それを祝って同年、「Harry’s Bar:The Original」という豪華な写真集もつくった。この本の中では、1920~30年代にハリーズ・バーで働いていて、「ブラッディ・メアリー」の考案者とも伝わる、ピート・プティオ氏の誕生秘話(1967年のインタビュー内容)も収録されていて、とても興味深い。

欧米のパブには、200年~300年続く店は少なくない。しかし店は長く続いていても経営者はその時代、時代で代わってゆく例が多い。そんな中、「ハリーズ・ニューヨークバー」がファミリー経営を維持しながら、100年以上、その歴史と伝統とバー文化を守ってくれている。

歴史の重みを感じるバックバー。

個人的には、世界中のカクテル・ファン、バー・ファンに愛されているこの酒場が末永く続き、カクテル史に新たな足跡を残してくれることを心から願っている。

【注】ホワイトレディは、当初マッケルホーンが1919年に考案した際はミント・リキュールがベースだったが、10年後、現在の「スタンダード」であるジン・ベースに変更された。一方、サヴォイ・ホテルの名バーテンダー、ハリー・クラドックが同時期に考案したという説もあるが、現在では両者とも考案者とみる見方が主流だ。

【追記】掲載写真のうち、店内外やカクテルの写真はKohsuke Usukura氏撮影(写真の著作権も同氏)。なお、Usukura氏が撮ってきてくれた他の沢山の写真は、Bar UK HP & Blog< https://plaza.rakuten.co.jp/pianobarez/ >で見ることができます)

この記事を書いた人

荒川 英二
荒川 英二https://plaza.rakuten.co.jp/pianobarez/
1954年生まれ。大阪・北新地のバーUK・オーナーバーテンダー、バー・エッセイスト。新聞社在職中から全国のバーを巡りながら、2004年以来、バー文化について自身のブログで発信。クラシック・カクテルの研究もライフワークとしてきた。2014年 の定年退職と同時に、長年の夢であった自らのバーをオープン。切り絵作家の故・成田一徹氏没後に出版されたバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』では編者をつとめた。
荒川 英二
荒川 英二https://plaza.rakuten.co.jp/pianobarez/
1954年生まれ。大阪・北新地のバーUK・オーナーバーテンダー、バー・エッセイスト。新聞社在職中から全国のバーを巡りながら、2004年以来、バー文化について自身のブログで発信。クラシック・カクテルの研究もライフワークとしてきた。2014年 の定年退職と同時に、長年の夢であった自らのバーをオープン。切り絵作家の故・成田一徹氏没後に出版されたバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』では編者をつとめた。