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カクテル・ヒストリア第16回 『もう1人のハリー(上)』

プロのバーテンダーなら、『ABC of Mixing Cocktails』を著したハリー・マッケルホーン、『The Savoy Cocktail Book』を生んだハリー・クラドックという2人の偉大なハリーの名を知らぬ人はほぼいないだろう。しかし、ハリー・ジョンソン(Harry Johnson)の名はどうか。

Harry Johnson 1888

ハリー・ジョンソンは、欧米のバー業界では「バーテンディングの父」の称号を持ち、スタンダードなクラシック・カクテルの一つ「ビジュー・カクテル(Bijou Cocktail)」(末尾【注1】参照)や「モーニング・グローリー・フィズ(Morning Glory Fizz)」「マルグリート・カクテル(Marguerite Cocktail)」などの考案者として、そして、「マティーニを活字として最も早く紹介した」カクテルブックの著者として、先に挙げた2人のハリーと同じくらい知られた存在なのだが、なぜか日本ではほとんど知名度はない。

ビジュー・カクテル(Bijou Cocktail)

ジョンソンが1882年に著した『Bartender’s Manual』という本は、約260種類のカクテルのレシピが収められているが(マティーニは1888年版から収録)、なぜかカクテルブックの歴史の中では、ジェリー・トーマス著の『How To Mix Drinks』(1862年刊)や、冒頭で紹介した『ABC of Mixing Cocktails』(1919年刊)、『The Savoy Cocktail Book』(1930年刊)ほど、重要な文献には位置付けられていない。

実は、ジョンソンの本は、カクテルブックの体裁は持ちながら全体のほぼ半分は、バーテンダーとしての仕事の基本や心構え、訓練法、揃えるべき道具・器具、バー経営のノウハウ(資金や仕入れ他)等に割かれている。なので、どちらかと言えば、「バー経営のための手引き書」でもあるが、100年以上経った今なお、復刻版が販売され続けている。

しかし、バー業界やカクテル発展への多大な貢献ほどハリー・ジョンソンの名が歴史上、輝いていないのは、彼の波乱に満ちた数奇な運命が大きな理由である。そんな彼の生涯を2回に分けて振り返ってみたい。

ジョンソンは1845年、旧東プロイセンのケーニヒスブルグ(現ロシア・カリーニングラード)で生まれた。7歳の時、家族で米国へ移住し、14歳頃からは欧米航路の船員として働き始める。そんな彼がなぜバーテンダーの道を目指すことになったのか。

1861年、16歳の時、乗船中の事故で骨折したジョンソンは、寄港地のサンフランシスコで治療のため下船させられた。そこから彼の波乱の人生が始まる。怪我から回復したジョンソンは船の仕事には戻らず、市内のユニオンホテルで「キッチンボーイ」として働きの場を見つけた。ホテル内のバーの仕事に興味を持ったジョンソンは、オリジナルなカクテルを提案するなどして、バーで頭角を現す。

ジョンソンがサンフランシスコで働き始めて2年ほど経った頃、のちに「カクテルの父」とも称されるバーテンダー、ジェリー・トーマスが、市内のオクシデンタル・ホテルのチーフ・バーテンダーに就任する。トーマスはジョンソンより15歳年上の31歳。この頃すでに名著『How To Mix Drinks』を出版し、全米レベルの知名度があるバーテンダーでもあった。二人は自然と出会って、何度か言葉も交わした。ジョンソンは、トーマスの姿にバーテンダーという仕事の魅力をさらに発見したに違いない。

そしてその後、ジョンソンはシカゴへ移って1868年、23歳の時、念願の自らのバーを開く。彼のバーはその豪華さでシカゴだけでなく全米でも話題の店となり、彼自身もたびたび講演を依頼されたり、地元新聞にカクテルのレシピを紹介する記事を執筆したりと知名度を増し、ビジネスマンとしての才覚も発揮していく。ジョンソンは後年、「1869年に、ニューオーリンズで開催されたバーテンダー12人によるコンクールで見事勝ち抜いて優勝した」とも言い残している(末尾【注2】参照)。

バーテンダーとして頂点を極めたように見えたジョンソン。しかし、そんな彼の絶頂を無残に打ち砕く出来事が起こる。1871年、シカゴの街を広範囲に焼き尽くした、いわゆる歴史的な「シカゴ大火」である。ジョンソンのバーももちろん焼失し、当時の金額で約10万ドル(現在なら約200万ドルに相当)の損害を被った。

彼はやむなくシカゴを離れ、出版社からの経済的支援も得ながらゼロからスタートすることを決めた。そして6年後の1877年、ニューヨークの「リトルジャンボ」(奇しくもかつてのオーナーはジェリー・トーマス)というバーを購入。バーテンダー・スクールも併設し、後進の育成にも乗り出した。翌1878年には、高級レストラン・バー「デルモニコ」のチーフ・バーテンダーも任され、ここで地元の数多くの有力者から厚い信頼を勝ち得た。

しかし、理由はよく分からないが、ジェリー・トーマスとジョンソンの関係は悪化する。1880年9月のある日、トーマスはジョンソンの店を訪れた。しかし、「(自らのオリジナルカクテルでもある)トム&ジェリーは、気温が零下のときのみ提供されるべきだ。ジョンソンはアマチュアだ」と批判し、カップを床に投げ落としたという逸話まで残っている(出典:Wikipedia英語版)。

ジョンソンは1882年、冒頭にも紹介した『Bartender’s Manual』を著した。

Bartender’s Manual

当時としては爆発的な売れ行きとなり、版を重ね、英語版だけでなくドイツ語版も出版され、欧州でもベストセラーになった。シカゴ大火で大きな被害を受けた彼は、印税という形で大きな収益を得た。しかし1890年、彼は突然「バーテンディングからの引退」を表明する。バーテンダーとして大きな成功を勝ち得たにも関わらず、なぜ45歳の若さで表舞台から去ったのか。(「下」へつづく)

【注1】ジン30ml、スイート・ベルモット20ml、シャルトリューズ・グリーン20ml、オレンジ・ビターズ1dash、シェイクしてカクテルグラスに注ぎ、レモンピールを(分量表記は現代風に変えています)。

【注2】カクテル史研究者の間では「このコンクールについては、ジョンソンの後年の証言しかなく、実際に開催されたのかどうかを確認できる史料は伝わっていない」という見解もある。

この記事を書いた人

荒川 英二
荒川 英二https://plaza.rakuten.co.jp/pianobarez/
1954年生まれ。大阪・北新地のバーUK・オーナーバーテンダー、バー・エッセイスト。新聞社在職中から全国のバーを巡りながら、2004年以来、バー文化について自身のブログで発信。クラシック・カクテルの研究もライフワークとしてきた。2014年 の定年退職と同時に、長年の夢であった自らのバーをオープン。切り絵作家の故・成田一徹氏没後に出版されたバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』では編者をつとめた。
荒川 英二
荒川 英二https://plaza.rakuten.co.jp/pianobarez/
1954年生まれ。大阪・北新地のバーUK・オーナーバーテンダー、バー・エッセイスト。新聞社在職中から全国のバーを巡りながら、2004年以来、バー文化について自身のブログで発信。クラシック・カクテルの研究もライフワークとしてきた。2014年 の定年退職と同時に、長年の夢であった自らのバーをオープン。切り絵作家の故・成田一徹氏没後に出版されたバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』では編者をつとめた。