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カクテル・ヒストリア第34回『謎多き「カクテルの貴婦人」ホワイト・レディ』

「ホワイト・レディ(White Lady)と言えば、1920年代に登場した代表的なクラシック・カクテルの一つ。このカクテルについては、二つの大きな謎が今も残されている。

一つは誰によって考案されたのか? もう一つは、二つの代表的なレシピのうち、卵白を入れるレシピはいつ頃、誰が始めたのか?

ホワイト・レディには、ジン・ベースにコアントロー(オレンジ・リキュール)、レモン・ジュースという基本レシピに加えて、卵白を加えるというレシピ(※味わいがなめらか、まろやかになる)がある。日本は前者が一般的だが、欧米では後者も珍しくない。

誕生の経緯については、従来は以下の3つの説が伝わっていて、(1)と(2)が有力な説だった。

(1)パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー(Harry’s New York Bar)」のオーナー・バーテンダー、ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)が1919年頃、ロンドンのシローズ・クラブ(The Ciro’s Club)で働いていた時期に考案した。

(当初のベースはジンではなく、ブランデー、コアントロー、ペパーミント・リキュールというレシピだったが、マッケルホーン自身は、「1929年に(現在も伝わる)ジン・ベースへ変えた」と自著に記している)。

(2)ロンドンのサヴォイホテル(The Savoy Hotel)「アメリカン・バー」のチーフ・バーテンダー、ハリー・クラドック(Harry Craddock)が1920年代に考案した。

(3)フランス・カンヌのカールトン・ホテル(The Carlton Hotel)のバーで考案されたという説(WEB上で紹介されているが、時期や裏付け資料は示されていない)。

ところが、2020年以降になって、欧米のカクテル専門サイトでは、4番目、5番目の説が散見されるようになった。

(4)ロンドンのクアリーノ(Quaglino)・レストランのバーで誕生したという説(出典:2021年刊の『Oxford Companion to Spirits and Cocktail』=裏付け資料の明示はない)。

(5)ロンドンのグロブナーハウス(Grosvenor House)・ホテル内、ビクターズ・バーのチーフ・バーテンダー、ビクター・キャブリン(Victor Cabrin)が1929年に考案したという説(出典:英国の著名なカクテル専門サイト「ディフォーズ・ガイド(Difford’s Guide)」)。

クラドックは、1930年刊の「サヴォイ・カクテルブック」にホワイト・レディを収録していることからして、少なくとも1920年代後半には同ホテルのバーで提供していたと考えるのが自然だろう。1929年にベースをジンに変えたマッケルホーンはおそらく、クラドックのレシピが主流になった現状を知って、そのレシピに倣ったのだろう(ただし、分量比は少し変えているが……)。

卵白なしのホワイト・レディを初めて紹介したサヴォイ・ホテル(The Savoy Hotel)は、現在では卵白入りを基本にしている(写真は、1931年頃のサヴォイ・ホテル「アメリカン・バー」=同ホテルのHPから)

「キャブリン説」を示した「ディフォーズ・ガイド」はその根拠として、彼自身が登場した1934年5月の英国の新聞広告で、ホワイト・レディを「His White Lady being perhaps the most famous」と、あたかもオリジナルのように紹介していることや、キャブリンのホワイト・レディへの関与を示唆する別の2つの新聞記事(1935年10月と1946年11月)を紹介しているが、いずれも「1929年考案」を裏付ける証拠にはならない。

他にも、ここ数年、「キャブリン説」を紹介している専門サイトもいくつか登場しているが、残念ながら、それを裏付ける「一次資料」を示したサイトはない。

そのため、現時点ではキャブリンという人物が何らかの形でホワイト・レディの発展に関わったことはあり得るとしても、クラドックやマッケルホーンを差し置いて、最初の考案者であるとはとても言えないと私は思う。

近年になって、ビクター・キャブリン考案説を紹介した英国のカクテル専門サイト「ディフォーズ・ガイド(Difford’s Guide)」

さて、クラドックやマッケルホーンは、卵白を使わないレシピでホワイト・レディを提供していたが、一方でキャブリンは基本、卵白を使うレシピだったという。

では欧米で、卵白を使うホワイト・レディはいつ頃から普及し始めたのか? 初めて「卵白入り」を紹介したのは、1935年に米国で出版された「ミスターボストン・バーテンダーズガイド(Old Mr. Boston Official Bartender’s Guide)」であるが、このホワイト・レディには生クリームも入っており、「卵白だけ」という意味で言えば、1946年刊の「ストーククラブ・バーブック(The Stork Club Bar Book)」が最初である(レシピは以下に)。

卵白入りのホワイト・レディが初めて活字になった「ミスターボストン・バーテンダーズガイド(Old-Mr.-Boston-Bartenders-Guide)」(1935年刊)

ご参考までに、1930年代~60年代の欧米の主なカクテルブックで「ホワイト・レディ」がどのように紹介されているか、ざっと見ておこう。

・「The Savoy Cocktail Book」(Harry Craddock著、1930年刊)英
ドライ・ジン2分の1、コアントロー4分の1、レモン・ジュース4分の1

・「Old Mr. Boston Official Bartender’s Guide」(1935年刊)米
ジン1.5オンス、生クリーム1tsp(ティースプーン)、パウダー・シュガー1tsp、卵白1個分

・「The Stork Club Bar Book」(Lucius Beebe著、1946年刊)米
ジン1.5オンス、コアントロー4分の3オンス、レモン・ジュース半個分、卵白1個分

・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham著、1956年刊)米
ジン3分の2、レモン・ジュース6分の1、コアントロー12分の1、卵白1個分

・「Booth’s Handbook of Cocktails & Mixed Drinks」(John Doxat著、1966年刊)英
ジン2分の1、レモン・ジュース2分の1、コアントロー2分の1、卵白1tsp

ちなみに、サヴォイホテルの「アメリカン・バー」では1970年代以降、基本、卵白入りのレシピでホワイト・レディを提供しているほか、現代の代表的なバーテンダー、チャールズ・シューマン氏も、その著書「シューマンズ バー・ブック(原題:Charles Schumann American Bar)」=2002年刊=では卵白入りのレシピを採用している。

欧米のバーでは昔から、クラシック・カクテルに卵白や卵黄を使用するものが少なくなかった。それは、氷が貴重品であった時代、カクテルの味わいをなめらかにし、飲みやすくするための工夫の一つだったが、1906年、米国の食品医薬品局がサルモネラ菌による生卵の食中毒を指摘したことで、一時的に使用にブレーキがかかった。

だが、1920年代の後半には、殺菌処理された生卵が流通するようになり、再び「卵白入り」のカクテルのバリエーションも増えていった。

ホワイト・レディは日本には1930年代に伝わったが、カクテルブックで紹介されたのは50年代半ばになってから。日本のバーでは21世紀の現在でも、おそらく、卵白なしのホワイト・レディを提供しているところがほとんどだろう。

しかし、私のバー(Bar UK)では、クラシック・スタイルの味わいを再発見してもらうことを願って、ホワイト・レディは、お客様が卵白あり、卵白なしを選択できるようにしている。ぜひ、皆さんも機会があれば、「絹のように滑らかな」卵白入りホワイト・レディをぜひ楽しんでいただきたい。

卵白入り、卵白なし、2つの代表的レシピが共存しているホワイト・レディ(White-Lady)(写真右側が「卵白入り」)

この記事を書いた人

荒川 英二
荒川 英二https://plaza.rakuten.co.jp/pianobarez/
1954年生まれ。大阪・北新地のバーUK・オーナーバーテンダー、バー・エッセイスト。新聞社在職中から全国のバーを巡りながら、2004年以来、バー文化について自身のブログで発信。クラシック・カクテルの研究もライフワークとしてきた。2014年 の定年退職と同時に、長年の夢であった自らのバーをオープン。切り絵作家の故・成田一徹氏没後に出版されたバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』では編者をつとめた。
荒川 英二
荒川 英二https://plaza.rakuten.co.jp/pianobarez/
1954年生まれ。大阪・北新地のバーUK・オーナーバーテンダー、バー・エッセイスト。新聞社在職中から全国のバーを巡りながら、2004年以来、バー文化について自身のブログで発信。クラシック・カクテルの研究もライフワークとしてきた。2014年 の定年退職と同時に、長年の夢であった自らのバーをオープン。切り絵作家の故・成田一徹氏没後に出版されたバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』では編者をつとめた。