「日本初」は実用性であまり評価されず
「天皇の料理番」として知られた元宮内庁料理長、秋山徳蔵氏(1888~1974)は、大正13年(1924年)10月に、日本で初めてのカクテルブック『カクテル 混合酒調合法』を出版した人物としても歴史にその名を残している。
秋山氏は元々バーテンダーではなく、西洋料理のシェフだったが、海外からの賓客を招く宮中晩さん会を取り仕切る立場から、必要に迫られて洋酒やカクテルの勉強にも打ち込んだ。そして著したのが前掲の本である。
この日本初のカクテルブックには、約200種類のカクテルが収録されているが、残念ながら、個々のカクテルの作り方やレシピについては「文章のみの説明しかなく、あまり実用的ではない」という評判もあって、一般にはあまり普及しなかった。
一方で、同年の1カ月後に出版された前田米吉氏の『コクテール』には、レシピが現代のカクテルブックと同じような「分量や割合で」表記されていて、実用性という点では、前田氏の本の方が高く評価されたことは疑いない。
わずか5年後に改訂版を出した秋山氏
日本生まれのカクテルブックとしては、その後、1926年(昭和元年)に『カクテル製法秘訣』(中田政三著)、1929年(同4年)に『カクテル』(安土禮夫著)、1931年(同6年)に『世界コクテル百科辞典』(佐藤紅霞著)などの本が出版されたが、当時のバー業界で話題になったという記録はない。戦前に出た本格的かつ実用的な文献としては、1936年(同11年)の『スタンダード・カクテルブック』(JBA編、村井洋著)が最も高く評価された(いまだ復刻版が実現しないことは個人的にはとても残念である)。
しかし私は先般、洋酒評論家として著名な福西英三氏(故人、1930~2022)が2008年に出版された『読むカクテル百科』(河出書房新社・刊)という著書を読んでいて、驚くべき一文を見つけた。
曰く、「一番古い『ブルームーン』収録書は、なんと1929年(昭和4年)に東京・赤坂の秋山料理研究所から発行された秋山徳蔵著『コクテール 混合酒調合法』というカクテルブックだった。」(137頁)と。
私はそれまで、秋山氏の著書については前述の『カクテル 混合酒調合法』しか知らなかった。彼が「日本初」の本から5年後に、自ら改訂版とも言えるカクテルブックを出していたことは、少々驚きだった。
国会図書館にも蔵書はない「幻」の本
早速、国会図書館のデータベースで調べたが、同館では所蔵していなかった。代わりに東京都内にある民間の図書館が、なぜか1冊所蔵しており、著作権法に違反しない範囲でコピーを入手することも可能だと分かり、依頼した。
その結果、以下に紹介する興味深い事実がいくつか分かった。
- 内容は、1924年初版の焼き直しだろうと想像していたが、1929年改訂版では、秋山氏はまったく新しいスタイルで書き直していた。
- 初版にはなかった、箇条書きでのレシピの分量表示を実現させている。
- タイトルも1924年の初版は『カクテル 混合酒調合法』だが、1929年改訂版では『コクテール 混合酒調合法』と変えている。
- 本の判型も、初版ではA5判くらいのサイズだったのが、改訂版では、持ち運びしやすく、現場でも使いやすいポケットサイズ(縦約15cm、横約9cm)に変更している。
- 改訂版での収録カクテルは120種類。初版の208種類と比べるとかなり少なくなっているが、約半数は新しいカクテルを収録している。
- 新収録されたカクテルには、バカルディ・カクテル、バンブー、ブルームーン、ブロンクス、ギブソン、ミリオンダラー(※かの『サヴォイ・カクテルブック』=1930年刊=よりも1年早く!)、ニューヨーク、パラダイスなど現在でもよく知られるカクテルも多いが、同じく知名度はあったはずのエッグノッグ、ウイスキー・ハイボール、ホーセズ・ネック、サゼラック、ジン・フィズ、ジャンディ・ガフなどは改訂版でなぜか外されていた。
「前田本」をかなり意識した大幅改訂
秋山氏は、この改訂版を出そうと思った動機について、序文(自序)で以下のように記している。
「國を料理する政治家も、経済界に活躍する実業家も、世界の檜舞台に立つ外交家も、日々事務室に働く俸給生活者も、工場に勤務する人々も、朝には思うが儘(まま)に奮闘せんとする溌剌(はつらつ)たる精神を振り興さんため、愉快なるアルコールを要求し、夕には、終日の勤労を癒し明日の力を培養するに強烈なるスピリットを愛好するは、自然の歌であらねばならぬ。(中 略)
近来我國に、一杯良く陶然たる快味をかちうるコクテールの、著しく流行を見るに至りたるは元より故なしとしない。著者は百忙一閑を愉しみ、嘗て『カクテル 混合酒調合法』なる小著を公にしたが、近来の傾向に鑑み、更に稿を更め、註解を加へ実際を基とし、酒場に働く人並びに社交界に活躍する紳士淑女、好酒豪の為めに新たに本書を刊行する所以である。」
行間には初版『カクテル』が、前田氏の『コクテール』と比べて、「読みにくい」「使いにくい」と指摘された点を真摯に受け止め、より実用的な本にしようと思った気持ちがにじむ。タイトルもあえて「カクテル」から「コクテール」に変え、収録カクテルも半数を入れ替えたのは、明らかに前田氏への“対抗意識”の表れだろう。
この改訂版出の刊行時、秋山氏は41歳。25歳の若さで宮内省大膳寮厨司長に招かれて以来16年のキャリアを積み、すでに揺るぎない地位を築いていた。別にこの本が売れなくても生活に困る訳ではない。
しかし、やはり、「日本初」のカクテルブックを出したというプライドが許さず、再び、現場で役に立つ改訂版を出そうと挑んだのかと思うと、秋山氏の人間らしい一面が見られて、微笑ましいとまで思ってしまうのは私だけだろうか。