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カクテル・ヒストリア第7回『<ブラディー・メアリー後編>名前を消され、ベースも変えた過去』

「ブラディー・メアリー」の考案者、フェルナンド・プティオ(1900~1974)は、「1920~21年頃考案した」と証言したが、1920~30年代の欧米のカクテルブックでの収録例は、なぜか見当たらない。

プティオが当時働いていたパリのハリーズ・バーではそれなりに飲まれていたはずだが、20年代の欧州ではさほど普及しなかった(米国はこの時期は禁酒法時代なので当然だけれど……)。個人的にはこれが不思議で、その理由をずっと探ってきた。

調べていくうちに、その理由がいくつか見えてきた。まず、20年代前半のパリでは、カクテルに使える手軽な缶入りのトマトジュースはまだなかった(米国から輸入され始めたのは25年前後なので、生トマトを濾してジュースを得るしかなかったろう)。

ウオッカも、ロシア革命(1917年)のあと西側へ亡命した蒸留業者がポーランドなどで生産を再開していたが、西欧地域での供給量はまだ十分ではなかった。なので、ハリーズ・バーで提供できた「ブラディー・メアリー」の量も限定的だったろう。

1934年、プティオはハリーズ・バーを辞めて、禁酒法が廃止された米国へ渡る。ニューヨークのセントレジス・ホテルのチーフ・バーテンダーに迎えられたが、オーナーから、「ブラディーという名は印象が良くない」と言われ、仕方なく、「レッド・スナッパー(Red Snapper)」という名に変えた。おまけに米国では当時ウオッカがほとんど出回ってなかったことから、ベースもジンに変えざるを得なかった。

加えて、「レッド・スナッパー」は当初、米国では「味が平凡だ」と不評だった。そこでプティオは塩、胡椒、レモンジュース、ウスターソースなどを加えて、味を複雑にする工夫を加えた。これが逆に、「最新の流行りもの好きな」ニューヨーカーに受けたという。

1939年、米国のヒューブライン社がスミノフの製造・販売権を取得。米国への本格輸入も始まった第二次大戦後には、スミノフ・ウオッカの販促カクテルの一つに「ブラディー・メアリー」が採用されたこともあって、その名が復活する。 そして1948年、米国の著名なカクテルブック「The Official Mixer’s Manual」(パトリック・ダフィー著)の改訂版で、「ブラディー・メアリー」は初めて活字で紹介された。プティオの米国流アレンジも程なくして欧州に伝わり、再び注目されるようになったのである。

この記事を書いた人

荒川 英二
荒川 英二https://plaza.rakuten.co.jp/pianobarez/
1954年生まれ。大阪・北新地のバーUK・オーナーバーテンダー、バー・エッセイスト。新聞社在職中から全国のバーを巡りながら、2004年以来、バー文化について自身のブログで発信。クラシック・カクテルの研究もライフワークとしてきた。2014年 の定年退職と同時に、長年の夢であった自らのバーをオープン。切り絵作家の故・成田一徹氏没後に出版されたバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』では編者をつとめた。
荒川 英二
荒川 英二https://plaza.rakuten.co.jp/pianobarez/
1954年生まれ。大阪・北新地のバーUK・オーナーバーテンダー、バー・エッセイスト。新聞社在職中から全国のバーを巡りながら、2004年以来、バー文化について自身のブログで発信。クラシック・カクテルの研究もライフワークとしてきた。2014年 の定年退職と同時に、長年の夢であった自らのバーをオープン。切り絵作家の故・成田一徹氏没後に出版されたバー切り絵作品集『NARITA ITTETSU to the BAR』では編者をつとめた。