もう25年近く前、まだ大学生だった僕はどういう経緯かバーボンである「Pappy Van Winkle 20y」をかなり安く手に入れたことがあった。
当時はスコッチにどっぷりはまっていて、どうにもバーボンの良さがわからずに結局飲みきれないまま、まだ半分ほど残るこのバーボンを流しに捨ててしまった記憶がある。今でも時々みんなの反応を見たくて米国の業界関係者にネタとしてこの話をするのだが、一同目を丸くすること間違いなし。人によっては発作を起こして床に倒れこむフリまでしてくれる。
日本で話題に上ることはあまりないが、Pappy Van Winkle(パピー ヴァン ウィンクル)と言えば米国では「バーボン界のロマネ・コンティ」として知られ、コレクターが血眼になって探し回るアイテムである。その人気から業界内で犯罪にまで発展したことがあるほどだ。当然価格が青天井。現在なら日本でも10万円はするし、米国ならその倍以上から3倍近くに跳ね上がることもある(ただし米国ではオークションも含め個人によるアルコール売買が厳しく制限されているため、個人で所有していてもほとんど価値はない)。
Pappy Van Winkleは実在の、それもバーボン業界に偉大なる足跡を残した人物だ。正式な名前は”Julian Prentice ‘Pappy’ Van Winkle”。ボトルに貼られたラベルの中でうまそうに葉巻をくゆらす老人、正にその人である。1874年、オランダ移民の家系に生まれたVan Winkleは若くしてW.L.Weller & Sonsという蒸溜酒卸会社で販売員として働き始めている。
Weller社は自ら酒を製造せず、入手したスピリッツに付加価値をつけて売るRectifierという業を営んでいた。Rectifierの多くはいかがわしい酒を再蒸留して少量のバーボンを足して売ったり、タバコの吸殻のようなおよそ食品とは言えないような物体を混ぜたりと、様々な違法行為に手を染めており、バーボンの暗黒部と評されることが多い。一方で現存する有名ウィスキー会社の始まりがRectifierだったのも事実。Old ForesterやJack Daniel’sで有名なBrown-Formanを創業したG.Brownも、Four Rosesを創業したP.JonesもI.W.Harperを生み出したI.Barnheimも、最初はみなRectifierだった。残念ながら現存こそしないが、Weller社は最も高潔かつ有名なRectifierの一つだったと言っていい。
1908年になるとVan WinkleはWeller社の経営権を入手。もともとWeller社はルイビルにあったStitzel蒸留所から原酒を入手していたが、同蒸留所は1920年から13年間続いた禁酒法の時代も医薬品としてバーボン蒸留が許可されていた数少ない蒸留所の一つだった。しかし医薬品向けだけでは経営が苦しかったのか、同期間中にVan WinkleはStitzel蒸留所を合併。禁酒法後、元の蒸留所が手狭となったために新しい蒸留所をルイビル近郊で稼働させている。
1935年5月4日、正にケンタッキーダービーが行われたその日だった。これがバーボン史にその名を刻む「Stitzel-Weller蒸留所」だ。最も有名なバーボンはなんといっても「Old Fitzgerald」。19世期から製造が続くこの伝統的なライ麦ベースのバーボンにVan Winkleは小麦を導入。そのふくよかな甘みと柔らかい飲みあたりは当時のバーボン界に大きな衝撃を与え、バーボンの味わいを永遠に変えてしまう。Van Winkleは蒸留そのものには携わることはなかったが、蒸留所には彼の思想を反映する様々な標語が掲げられていた。その一つでこのコラムを締めくくろう。
「化学者立ち入り禁止! 自然および蒸留所長の昔気質の”know-how”のみが仕事をなすべき場所。ここは蒸留所。工場にあらず。」