• コラム
  • リカルライター紹介
コラム ウイスキーコラム 時代の証人:なぜ多くの蒸留...

時代の証人:なぜ多くの蒸留所がグレンリベットの名を使用するようになったか?

Andrew Usher

エジンバラに住んでいた頃、音楽を聞きにUsher Hallというエジンバラ随一のコンサート・ホールに幾度か足を運んだことがある。エジンバラ城を見上げる新市街にあるこのホール内、エントランスからthe Grand Circleというメイン会場へ抜ける通りの脇で、一人の男性の胸像が壁に埋め込まれている。

“The Usher Hall” (https://flic.kr/p/Lr6gR1) by Rob Edinburgh: CC BY 2.0
キャプション:エジンバラ城を背景にUsher Hallを眺める。100年以上前の建築物だが、現代的な改装がなされ今もなお地元っ子に愛されるエジンバラの文化拠点だ。

日本ではほとんどその名が知られていないが、彼こそが「ブレンデッド・ウイスキーの父」とされるAndrew Usher Jr.だ。

そうUsher Hallは彼が街に寄贈したコンサート・ホールなのである。彼はブレンデッド・ウイスキーの成功を通して、それまで蒸留所という生産者主体だったウイスキー業界を商人主体のビジネスに転化させ、現在我々が知るウイスキー業界の基礎を作った人物だ。

1826年に生まれたAndrew Userは正式にはAndrew Usher Jr. という。彼の父親である同名のAndrew Usher Sr. はエジンバラでスピリッツ商を営んでいたが、なかなか盛況だったようで、1843年には現在の「The Glenlivet(グレンリベット)蒸溜所」の元となるDrumin蒸溜所のGeorge Smithから毎月3000リットル近いウイスキーを購入し、販売をしていたらしい。

同じ頃Usher Jr. は父と12人兄弟の一人John Usherと共にA. Usher & Co. を設立、その後同社はエジンバラ市内に自社蒸留所を設立している。父親が他界した後の1860年代、イギリス植民地や新興国である米国を見据えていくつかのブレンデッド・ウイスキーを売り出しているが、中でも有名なのがOld Vatted Glenlivet(O.V.G.)だ。

SmithのThe Glenlivet蒸溜所、そしてUsherらが株を所有していたRoyal Brackla、さらに自社蒸留所を含むエジンバラのいくつかの蒸留所のウイスキーを組み合わせたO.V.G.は大きな成功を収めた。Andrew Usherはそこで得られた巨万の富を元に慈善事業の一環としてコンサート・ホールを街に寄贈したのである(実際にホールが完成したのは彼の死後だった)。

ところでO.V.Gの由来になったGlenlivetには面白い話がある。ビジネス・パートナーであるG.Smithが設立したThe Glenlivetは当時の国王、ジョージ4世がそのウイスキーを所望したというほど評判が高く、また周囲の反対を押し切ってスコットランドで初めての政府から製造免許を受けて稼働した合法的な蒸留所だったことなどから、次第に当時の蒸留業界の代表的な蒸留所として知られるようになった。特にO.V.G.によって世界的にGlenlivetの名がブランド力を持つようになると、周辺の多くの蒸留所がGlenlivetの名を使用するようになった。

このことを快く思わなかったUsher兄弟とSmithの息子John Smithらは「Glenlivet」の独占使用を意図してO.V.G.を卸している海外の代理店にGlenlivetの名を冠した他のウイスキーを扱わないように圧力をかけ始めた。1879年O.V.G.が商用登録されたことから始まったこの悪名高い「Glenlivet紛争」は、最終的に法廷に持ち込まれ多額の資金を費やしたにもかかわらず約二年後敗訴が確定してしまう。

敗訴の理由は色々あっただろうが、一つ有力だったのはGlenlivetの名が地域名であり、更にThe Glenlivet蒸溜所がその名を名乗る前からいくつかのウイスキーにGlenlivetが既に使用されていたという事実だった。皮肉なのはそのうちの一つがO.V.G.自体だったことかもしれない。

結局、他の蒸留所もGlenlivetの名を使用できるようになったものの、「Dailuaine Glenlivet」や「Aberlour Glenlivet」「Macallan Glenlivet」のような形の副次的な使用のみとなり、Glenlivetのみでの使用はThe Glenlivet蒸溜所だけとなっている。Glenlivetという名の固有性を示す定冠詞である「the」が付いているのはそのためだ。

冒頭Andrew Usherを「ブレンデッド・ウイスキーの父」と書いたが、これは語弊がある言い方だろう。少なくとも彼は「ブレンデッド・ウイスキーの発明者」ではないことは確かである。業界内での定義はさておき、「ブレンデッド」の意味を一般的な解釈に近い「複数の蒸留所のウイスキーを混ぜたもの」という意味で捉えれば、父親のUsher Sr. のようなウイスキー商ならブレンディングは当時誰もが自然に行っていたはずだ。当時はウイスキーの品質向上というよりも、むしろ在庫管理が目的でブレンドがされていたかもしれない。

工業的な連続式蒸留器の完成によって大麦以外のいわゆる雑穀ウイスキー、すなわちグレーン・ウイスキーが造られるようになったのは1830~40年代以降のため、それ以前のブレンデッド・ウイスキーは複数のモルト・ウイスキーを混ぜるVattedと呼ばれるものだった。

モルト・ウイスキーに雑穀を連続蒸留してできたスピリッツを添加したものがウイスキーと呼べるかには比較的長い論争があって、英国でそれが正式に許可されるのは1860年の「Sprit Act」以降だったが、これによって新たな種類の「ウイスキー」、つまり現代的な意味でのブレンデッド・ウイスキーが安価で大量に生産可能になったのである。これに品質の向上や安定、そしてブランドという付加価値をつけて大成功したのがUsherのウイスキーだったというわけだ。

これ以降、ウイスキー業界は独立した蒸留所が主体的にウイスキーを生産し、それをウイスキー商が購入・販売するという分業形態から、ウイスキー商が蒸留所を所有し、品質・量共に安定的な供給の下で大きく販路を拡大していくという現代的な形へと様変わりすることになった。

この記事を書いた人

ジミー山内
ジミー山内
ウイスキーアドバイザー。米カリフォルニア在住。アメリカン・ウィスキー及びクラフト・ビール関連業界に深く携わる一方、日本で気鋭のクラフト・ブルワリーであるTokyo Aleworksを創設。スコットランド在住時はScotch Malt Whisky Society本部で樽選定員として数多くのモルト・ウィスキーを世に送り出している。
ジミー山内
ジミー山内
ウイスキーアドバイザー。米カリフォルニア在住。アメリカン・ウィスキー及びクラフト・ビール関連業界に深く携わる一方、日本で気鋭のクラフト・ブルワリーであるTokyo Aleworksを創設。スコットランド在住時はScotch Malt Whisky Society本部で樽選定員として数多くのモルト・ウィスキーを世に送り出している。