History in a glass No20
随分と前になるのだが、グラス業界でとても知られた御仁がいた。彼からグラスを購入した事のあるバーテンダーも沢山いたので、覚えていらっしゃる方もおられるだろう。
麹町の一等地に店を構え、さながらグラス屋というよりは高級ブティックという内装であった。そこに並べられたグラスは美術品のようでもあり、重厚感で満ちていた。
この店を訪れるにあたり、諸先輩方からまだ若い自分に色々なアドバイスをして頂いた。まずは、きちんとした格好をしていくこと。名刺を出すこと。知ったかぶりをしないこと。話を聞くこと。そして必ず購入すること。これだけ聞けば誰もが逡巡しそうだが、勉強も兼ねて行くことにした。
その眼光鋭い主人は、開口一番「どんなグラスが欲しいのだ?」と言った。私が「カクテルグラスとロックグラスを探しに来たのです」というと、「そんなものは世の中に存在しない、有るのはマティーニグラスとオールドファッションドグラスだ」と、一刀両断である。
とても厳しい人ではあるが、その後グラスの歴史や扱い方、供し方、お酒の種類によるグラスの選び方等、懇切丁寧に教えて下さった。初対面ではあったが、2時間近く話を聞き享受することができた。帰り際、「このグラスを買って帰りなさい」と私の全く意図しないグラスを渡され、買って帰った記憶がある。
写真のグラスは氏がデザインされた「男のグラス」と呼ばれるハンドメイドのショットグラスで、一つずつ形や大きさが微妙に違う。大振りで手に馴染み、重く、打ち出された武骨な表面は氏そのものである。注がれた液体はまさに「ザ・ウイスキー」と呼ぶのに相応しい。
その後、何度か店に通い、様々なお話を聞いたり、食事に誘って頂いたり、ご自宅に伺ったこともあった。風の便りで数年前に亡くなったと聞き、師匠を失った様で残念に思う。このグラスは所有しているバーのマスターからお借りして、撮影させて頂いた。この「男のグラス」を手に入れる事が出来なかった事を少し後悔している。