駅までの道沿いにその店ができたのは、今年の冬のことだ。
繊細な手作りのアクセサリーを売る店が閉店し、しばらくして小さなビストロに生まれ変わった。
日曜の夜、夕食の材料を買いに出かける途中、店の前で若いご夫婦からショップカードを渡された。「自家製シャルキュトリーとフランス家庭料理の店」とある。3日前に開店したばかりだという。数学の難しい理論の名前を店名にしているのにも興味がわいた。
これも何かの縁とお邪魔した。しっくいの壁や木の扉、外から店内を垣間見ることができる、額縁のように切り取られた窓、板張りの床など造作はアクセサリーショップの頃と変わらない。新たに設けられた厨房とカウンターで、シェフであるご主人が腕を振るい、奥さんがサービスをする。無駄な装飾のない、でも居心地の良い清潔な店である。
スパークリングワインをグラスで頼み、黒板メニューからシャルキュトリーの盛り合わせを待つ。ハムやソーセージ、テリーヌなど10種類以上をご主人が独りで仕込んでいるという。アラカルトも、サラダから魚、肉まで過不足なくそろっていて、しかもハーフサイズが選べる。おなかの空き具合に合わせて食べて飲んで値段も良心的。気に入った。
「私のような独り呑み女のために頑張ってください」
帰り際、半ば本心から言った。なにせこの夜の客は私1人。こんないい店に、つぶれられては困るのだ。
心配は杞憂に終わった。通うたびに店は少しずつにぎやかになり、固定客も増えた。ご主人は頑張りすぎて腱鞘炎になったほどだ。
春が過ぎ、夏が来て、黒板メニューも少しずつ変わった。おいしくて、誠実で、独りに優しい店が近くにある幸せ。私はカウンターに1人座って、忙しく立ち働く若夫婦を眺めつつ、今夜も旬の一皿を待っている。