蒸留酒でも醸造酒でも、自分が生まれた年に仕込まれた酒を飲むのって、何か特別な感じがしませんか。
私は、1968年生まれ。1968年に蒸留されたモルトに思い入れがあり、一時期は「1968モルト」のコレクターになりかけていました。気づいたら150本。
仕事で大きなヤマを越えたとき。人生の転機を感じて考え込むとき……。何か特別な時間を一人で過ごしたい夜に、私は1968モルトに向き合います。部屋を暗くして、木のテーブルにランプを灯して。1968モルトをグラスに注ぎ、対話するかのように飲みます。
同じ年に生を受けたもの。その年に仕込まれた大麦、作用した酵母やバクテリア、その時に流れていた水、漂っていた空気。そうした命の塊が、1968年という私にとって特別な年に醸され、蒸留され、樽で熟成し、やがて瓶詰され、今まさに私の前に。
「そうか、同じ1968年に生まれて、こんな風に熟成したのか」
「同じ年数を経た私自身の熟成度は、どうなのだろうか」
などなど、1968モルトと向き合って過ごす夜は、深い思索の時間になります。問いかけてもモルトは言葉を返してくれませんが、その香りや味の中に答えは確かにあるのです。
同じ年に生まれて、それぞれに過ごしてきた時空を超えて向き合う同い年の酒。私の命が有限であるのと同じく、1968モルトにも限りがあります。あと何回向き合えるでしょうか。
今宵は、もう丑三つ時。つい先日亡くなった大学時代の同級生を偲びつつ、独り1968モルトを飲んでいます。シェリー樽の苦みが、心にしみます。人生に乾杯。