ヨーロッパや日本のように長きに渡って酒造りが行われてきた国々では、科学的な知見がまだまだ乏しかった時代から、何世代にも渡る経験の積み重ねによってその土地々々で得られる水にマッチした酒のスタイルが生まれてきた。
ビール史を語る上で最も重要な街の一つ
その最も有名な例が、イングランド中西部にあるBurton-on-Trent(バートン・オン・トレント)の水とビールだろう。
いまではなんの変哲もない英国の中小都市といった佇まいのバートンは、ビールの聖地とされるミュンヘンやピルセンに勝るとも劣らない、ビール史を語る上で最も重要な街の一つなのだ。19世紀、この街には30以上のビール醸造所が文字通り軒を連ね、世界有数の醸造所街として知られていた。
もちろんここで生み出されたビールはエール。特にホップの効いたPale AleやIndia Pale Ale、すなわちIPAが有名だ。事実上IPAを生んだ街と言ってもいい。現在でも英国を代表するPale AleであるBass Pale Aleを生み出したBurton Brewingもバートンが故郷だ。
Bassのバートン醸造所は一時期世界最大のビール醸造所だった。以前、Tasting101に書いたが、世界的に有名な英国製調味料「マーマイトMarmite 」もバートン生まれ。Bass醸造所から大量に廃棄されていた酵母を使ったのが始まりだ。
秘密は高い硬度と特殊な水の組成
バートンの水を仕込み水としたエールは輝くようなホップの苦味とバートン・スニッチBurton Snitchと呼ばれる鼻先をかすめる一瞬の硫黄臭で多くのビール愛好家を虜にしたが、当時はなぜバートンだけがこのようなビール造りができるのかが分からず、他の地域の醸造所がこぞってバートンのビールを模そうと努力したが、決して成功することはなかった。
バートンの水の秘密は高い硬度と特殊な水の組成にあり、当時の醸造家はその組成を知ることや、知ったとしてもそれを再現することが出来なかったからだ。
「バートン・オン・トレント」の「オン・トレント」とは「トレント川の」という意味。つまりバートンはトレント河岸の街ということだ。この地域は太古の昔、強い乾燥のため周辺の湖が蒸発し、水に溶けていた成分が岩の一部となって堆積した独特の地層の上に成り立っている。これがいわゆる蒸発岩だ。蒸発岩の主成分は石膏、つまりカルシウムイオンと硫酸イオンの化合物。ここを通った水は硬水だが、その組成はユニークで、硫酸塩やカルシウム、そしてマグネシウムの成分が他に類を見ないほど高い一方で、相対的に塩分や炭酸水素塩が低い。
皮肉なことに現在バートン最大の醸造所は米国CoorsとカナダのMolsonが合併してできたMolson Coors社のCoors Burton醸造所なのだが、そのCoorsを生み出した「ロッキー山脈の湧水」に比べ、バートンの水はカルシウム成分で10倍、炭酸水素塩で3倍、硫酸塩に至ってはなんと14倍も含まれている。これが「バートン・ウォーター」を世界のビール醸造家なら誰でも一度は耳にしたことのある、世界で最も有名な仕込み水としているのだ。
事実、水に石膏を加えてカルシウム分や硫黄分を調整することを「Burtonizingバートン化」というほどだ。
本当の意味でのIPA
ビール造りに縁がない人にとっては、石膏やら炭酸水素塩やらカルシウムとビールにいったいどんな関係があるのだろう? と不思議に思うかもしれないが、これらの成分はビールの仕込みやその品質に大変重要な役割を担っている。
その役割は色々あるのだが、大きく分ければ3つ。仕込み時の麦汁の酸性度の調整、ホップ感の増進、そして酵母の栄養だ。
ビールの原材料であるモルトは砕いてお湯に溶かすと多少だが酸性に傾く。スタウトなどに使用する濃くローストした麦芽はより酸性度が強くなる傾向にあるが、逆にペール・エールやピルスナーなどで使用するペール・モルトのようなローストの浅い麦芽はその力があまり強くない。
ご存知のように水はpH 7において中性を示すが、糖化時の理想的なpHは5.2~5.6程度(pHは数値が低くなればなるほど酸性度が高くなる)。pHがアルカリ性に振れていくと、麦芽の外皮などから渋み成分が染み出やすくなったり、糖化酵素の働きが妨げられて糖化があまり進まない。
石膏は仕込み水に添加すると酸性傾向を示すので、浅いローストを使用したビールなどでは酸性度調整のために使用される。その意味でバートン・ウォーターは天然の調整水というわけだ。また、ペール・エールやIPAなどでは硫酸イオンと塩化物イオンの濃度比率が2:1程度になるとホップ感に鮮やかなアクセントがつくとされている。
他の多くのビールの場合その比率はより1:1に近いので、IPAなどでは硫酸イオン濃度が高めということなのだけど、バートン・ウォーターはなんと51:1というとんでもない比率になっている。あまりに硫黄成分が多いわけだが、これが歴史的にバートンのビールに独特のホップ感とグラスを傾けたときのフッとした硫黄感を与えてくれたわけだ。
IPAはインド出荷向けという意味のIndia Pale Aleに由来するが、IPAが苦いビールの代表とされるのは、その高いホップ由来の苦味成分による静菌作用によって長い航海でもビールが悪くならないためだと言われている。
その一方で硫酸塩などの硫黄化合物はホップよりも遥かに高い殺菌力があるため、バートンで醸造されたペール・エールの多くがインドなど英連邦やその他の国に出荷された。これこそ、本当の意味でのIndia Pale Aleだ。
従って、今でこそIPAの名は苦いビール・大量のホップが加えられたビールと言う意味だが、本来はバートン・ウォーターを使用して出来た苦いだけでなく、硫黄臭がキツめの強いペール・エールがIPAの真髄といえるかもしれない。これこそ当時バートンが世に名だたるビール醸造の街となった理由の一つだ。
また、バートン・ウォーターの高いカルシウム成分は糖化時のpH調整や酵素の作用、そして酵母の活性や沈殿、ビールの清澄化に好ましい影響を与え、高品質なビールづくりを可能にしている。
現代のビール醸造は、プロ・アマを問わず多くの場合、逆浸透膜を利用した濾過水を使用し、一旦余分な成分を取り除いた後に、様々な「塩」(いわゆる「食塩」ではなく、化学的な意味での「塩」)を加えることで水質調整を行って特定のビールスタイルに望ましい水分組成を得ているが、その中でも石膏は最も一般的な「塩」の一つだ。
石膏を主体にしてマグネシウムなどを加え、バートン・ウォーターに似せた組成にするための「塩」のミックスを「バートン塩」とよんだりもする。次回はその「塩」と水の調整について見てみよう。